遠賀町起業支援施設PIPIT(ピピット)
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食と農のよろこびをつなぐ起業家たち(第27回PIPIT交流会)(10月24日開催)

2019年 10月 25日

 今回は3組の登壇者に「食と農」をテーマでお話しいただきました。事業承継した2代目社長、合計年齢が2人で140歳というご夫婦、若き料理研究家とバラエティに富んだ登壇者とその事業内容に参加者は興味津々です。

プレゼンテーション1******************************

 有限会社緑の農園 代表取締役 早瀬 憲一氏
 「事業承継した『つまんでご卵』のこれまでと、2代目社長として目指すこれから」

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 糸島市にある『有限会社緑の農園』は、現会長の早瀬憲太郎氏が平成元年40歳で養鶏を始め、平成11年に有限会社となりました。養鶏業、卵、飼料、環境、製品などを40年間、一消費者として見てきたことが事業を展開する上での強みになったのではないかと早瀬氏は語ります。

 有限会社へと組織を変更したのは、直売所も開業したかったからです。開設に当たっては、自分達が食べたいものを集める「早瀬家の台所」、そして「安全安心」、当然ながら「美味しいもの」という3つのコンセプトを決めました。このコンセプトに沿って集めた食材を販売する中で、最高の「小麦粉・砂糖・卵(後に紹介する『つまんでご卵』)」を使ったロールケーキ「つまんでご卵糸島ロール」が誕生しました。店舗も大きくして食堂業も開始、ケーキトレーラーハウスを開設したり、鶏舎を増設したりと、事業を拡大していきました。
 そして、平成30年12月に31歳の早瀬氏が2代目として代表取締役に就任することになりました。周りの先輩の事業所では、先代が亡くなられて急遽継がなければならなくなったケースが多く、いろいろな面で困っている姿を見ることがあったそうです。早瀬氏の場合は、先代が元気なうちに事業を承継したので、知識の面やお客さんとの繋がりの部分でもスムーズに移行ができました。社員の皆さんにも会長として先代がいるという安心感があったようです。

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 早瀬氏の事業承継への想いには、第一に「先代の功績を次世代は絶対に認めるべき」というものがあります。「先代を超える」というマインドを持たず、先代と「並び称される人間になる」ことを目指す。そこで鍵となったのが『つまんでご卵』というブランド名です。
『つまんでご卵』という名前は、テレビの取材中、早瀬氏のお母さんがたまたま卵の黄身をつまみ上げたことがきっかけで生まれました。それまでは、『早瀬さんの自然卵』というネーミングで販売していましたが、『早瀬さんの...』では、どうしても名前が付いた先駆者のカリスマ性や努力、エピソードなどが独り歩きしてしまい、その業を継いだ次世代は比較されがちです。『つまんでご卵』というブランドがあったことで、そのブランドを守りながら次どうするかと考えやすくなったそうです。
 「素晴らしい商品を授けてもらえたので、次は広く知ってもらうためにも海外展開を視野にいれた事業拡大を目指したいですし、次世代の子ども達に『食』の仕事が面白いことと、素晴らしいことを伝えたいですね。」と目を輝かせて締めくくられました。

プレゼンテーション2******************************

九州ふるさと村 代表 髙尾 皓皖(てるきよ)氏 髙尾 眞理枝氏
「二人で140歳 なぜ起業したか? アクティブシニアの挑戦!」

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 起業した時は二人の年齢を合わせて140歳だった髙尾夫妻。年金では生活が出来ないのでわずかでも稼げないかと考えたことと、7年前に日本では知られていない「高麗人参新芽」に韓国で出会い、手掛けてみないかと言われたことがきっかけでした。

 皓皖氏は、以前広告代理店を起業しましたが40歳で倒産。莫大な借金の返済はなかなかうまく行きませんでしたが、56歳の時に仕事の質、働き方のあり方を見直したところ、62歳までに負債が整理できました。「高麗人参新芽」を日本に広めるため、74歳で「九州ふるさと村」を起業しました。

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 「高麗人参新芽」は日本では知られていない食材のため、当初は買い手が現れませんでした。そこで、中小企業センターよろず支援拠点に出向いたところ、「高級な食材は高級な場所とお店で取り扱ってもらい、販売実績を作る事だ」と販売場所まで紹介してもらえました。しかし、扱ってもらえません。再度相談に行き、他の食材と煮たりするとその食材のうまみを引き出すなど、いろいろな力を持っていることから、ネーミングを『高麗忍者』に変え、新聞社にプレスリリースをし、ホームページを作り、SNSでも情報を発信しました。『高麗忍者』のロゴデザインを施したTシャツを着て街を歩きました。平成29年に初めて出展した展示会ではスーパーマーケットの役員に知己を得て、店舗で販売させてもらえることにもなりましたが、それでも売れません。
 しかし、皓皖氏は諦めませんでした、そこには平成10年から書き溜めている"夢を叶えるノート"の存在がありました。そのノートに色々な夢を叶えるための内容を綴っているうちに"諦める"の文字が人生から無くなったそうです。

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 またアドバイザーのところに行くと、「昭和40年代の夜討ち朝駆けの営業スタイル、SNSならぬSES(S.昭和のE.営業S.スタイル)で行ってみては」と言われます。そこで手書きのダイレクトメールを福岡市の店舗に30通出したところ、4~5件から反応があり、それをきっかけに商談が増え始めます。大手有名ホテル、料亭、薬膳料理教室、串揚げ店、平成30年になるとフランスの日本大使館のシェフをされていた方が紹介をしてくださり、商品にどんどん箔がついて行きます。そして福岡県のみならず九州、東京まで知れ渡りました。
 商品開発にも余念がありません。醤油に応用して『忍者醤油』、甘酒に応用して『忍者甘酒』を発売し、セミナーにも呼ばれるようになり、韓国からの生産者にもホームページで繋がりご縁も生まれました。「高齢になっても『高麗人参新芽』の流通と国産化をミッションに、『九州ふるさと村』の建設に邁進していきたい」と、にこやかに話されました。

プレゼンテーション3******************************

料理研究家ささキング/ 添田町地域おこし協力隊 佐々木 晋氏
「料理研究家として目指す、独立・起業」

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 現在、地域おこし協力隊として働きながら、起業準備中の佐々木氏。起業しようと思った理由は、一つ目は業界の昔ながらの働き方(残業が多いことやトップダウンという慣例)から脱却したいと「自分にあった働き方」に関心を持ったこと。二つ目は、社会に役立つことを自分で考えてみたくなったこと。三つ目はきっかけが協力隊と副業という今の働き方が自分にあっているなと感じたこと。今後はフリーランスという形で独立をしていく予定だと話されます。
 昔のあだなだった『ささキング』という名前で料理研究家をしていますが、もともとは調理師として保育園、幼稚園で1,000食のレシピ作成に携わっていました。今も福岡県産の野菜を広める地産地消の匠という肩書で、道の駅を拠点に特産物のPRに関わっています。
 地域おこし協力隊として取り組んでいる農家とのイベント企画では、消費者を生産者の所に連れて行き、どのような場所でどのように作物が育ち、収穫されるのかを実際に見てもらっています。また、道の駅では、地域の産品を使った料理教室の運営や試食(実演)販売を年間に50回ほど行っています。農家さんが作りたいが、消費者にはあまり知られていない野菜の料理を消費者に食べてもらうことで、その野菜のレシピや料理法を知ってもらうためです。通常では8袋くらいしか売れない「まこもだけ」を調理してお客さんに食べてもらった時には、40袋全部が午前中に完売したそうです。また、B級品のりんごを使ったアップルパイの開発も行い、短期間に前年度分を売り上げ、利益を上げる販売の指導もされているそうです。
 このような取り組みを通して、消費者に作物(商品)の安全・安心を感じてもらえ、農家の方が作った作物に息を吹き込めている、とやりがいと喜びを感じています。
 『ささキング』と言えば赤いエプロンがイメージされるようにセルフブランディングも大切にしています。そして自分のできることを明確にして分かりやすく相手に説明するように工夫したポストカードも準備しています。地域の広報誌やメディアにも登場します。そして、地域おこし協力隊をしながら、自分の起業の準備が出来たことは、恵まれた環境でしたが、特に「自分の持つスキルの発見と考えたことを試行できたこと、そして多くの人との繋がりを持てたことが良かった。今後は、直売所の支援をすることで第1次産業を応援する事、料理以外にも自分の強みを見つける事、料理教室を通して日常を豊かに生きる人を増やしながら、フードロスなどの社会的な課題の解決に向けて行動したい」と語ってくださいました。

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 今回、3人の登壇者に共通していたのは"ブランディング"でした。ブランド化されていたから事業承継がうまく行った、ブランディングしたから商品が分かりやすくなった、自分をブランド化することでやっていくことが鮮明になったというお話に参加者も感銘を受けているようでした。